非合理の極み-もんじゅ廃炉でも核燃サイクルは維持?

本日、代々木公園で開催された「9・22さようなら原発・さようなら戦争大集会」には、激しい雨をものともせず、9500人もの人々が集結した。雨のため、残念ながら集会後のデモは中止となったが、会場の全員で「再稼働反対!」「辺野古新基地建設・高江ヘリパッド建設を許すな!」とシュプレヒコールをあげて原発ゼロ、戦争法廃止の日までたたかい続ける、強い意志を表明した。

集会の中でも言及されていたが、「もんじゅ廃炉」の政府方針が、本日の朝刊各紙で大きく報道された。特に東京新聞はトップ記事のみならず、社説を含めて4本の記事として詳細に取り上げている。ネット版でもそのいくつかの記事を読めるので、是非お読みいただきたい。

もんじゅ廃炉へ 政府、年内に結論 核燃サイクルは維持

もんじゅ、廃炉へ 大転換の時代に移る

もんじゅ、大手電力も二の足 技術なく「もうからない」

長年にわたって反原発の運動を続けてきたものからすれば、一つの区切りではあるが、本来ならナトリウム漏れ事故を起こした1995年時点、10年以上前に決断してしかるべきことだ。その間に費やした国費は年間200億円とのことだから、2000億円以上。20年有余の「もんじゅ」開発プロジェクトでこれまで費やされた国費は1兆円以上。さらに、六ケ所村の再処理工場(いまだに未完成で、現在の完成予定は2018年上期と言われているが、これまで「完成予定」延期を23回も繰り返してきた経緯からすれば、とても信じられない「予定」だ)を含む核燃サイクル全体に費やされたお金は12兆円以上(東京新聞調べ)。このお金を使えば、どんなことができただろうか。

お金の話を聞いて「こんな税金の使い方は許せない!憤懣やるかたない!」という方も多いと思うが、こんな無責任な国家プロジェクトの存続を許してきたことについては、「文句を言わない」「声をあげない」国民にも責任の一端はあるだろう。民主主義社会の市民にとって、自分たちの税金がどのように使われているかをチェックし、おかしければ文句を言う・声を上げるのは義務でもある。

ところで、今回決まった政府方針では「もんじゅ」は廃炉にするが「核燃料サイクル」は維持する、とのこと。(「核燃料サイクル」については以下の参考資料をご覧いただきたい。)

(核燃料サイクルのしくみ)

核燃サイクルをご存じの方は「ちょっと待った!もんじゅがない核燃料サイクルに何の意味があるんだ?」と思わずにはいられないだろう。上記の図で、いわゆる「プルトニウム・サイクル」と呼ばれる部分はもんじゅがなければ成り立たず、蓄積するプルトニウムを消費するには、いわゆる「プルサーマル」で、通常の軽水炉でプルトニウム混合燃料を燃やすしかない。(ちなみに「プルサーマル」は日本の造語で、こんな英語はないのでご注意。良くこんなおかしな言葉を考えだすものだ、と感心するが。)

この「プルサーマル」は通常の核燃料を使う運転よりも不安定で、より危険度が高いうえ、プルトニウムの消費にはたいして貢献しないと言われている。それなのに何故、「プルサーマル」を躍起になって進めるかといえば、プルトニウムを蓄積すればするほど、「核武装の意図あり」と国際社会から見られてしまうからだ。

ご存知のようにプルトニウムは核兵器(原爆)の原料であり、国際的に所持が厳しく制限されている。問題の「核燃料サイクル」自体、「日本は原発をやって、再処理もやって(現実には国産化できていないが)プルトニウムを蓄積しますが、これは核兵器用ではありません、高速増殖炉もんじゅで燃やす平和利用です。」という言い訳として進められてきたものだ。したがって、もんじゅの廃炉が決まった以上、この核燃料サイクルも完全に破たんした、と言わざるを得ない。

今回の「もんじゅはやめるが、核燃料サイクルはやめない」という決定は、非合理の極みと言わざるを得ない。技術的な可能性がない、合理性もない核燃料サイクルはきっぱりとやめて、自然エネルギーの開発に明確に舵を切るべきである。その決断が遅れれば遅れるほど、日本は自然エネルギーに向かう世界の流れから取り残された「エネルギー後進国」になっていくしかないだろう。そうならないように、我々は声を上げ続けていかなくてはならない。

(2016-9-22)
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