婚外子差別「違憲判決」に思う

日記
09 /05 2013
最高裁は4日、全員一致で民法の婚外子相続差別を「違憲」とする判断を示した。近年にない画期的な判決であり、快哉を叫びたい。この最高裁判決を受けて、国会は速やかに法改正の手続きを進めるべきである。

ところでこの問題について新聞各紙は、今回の最高裁判断の根拠は「家族観の多様化」と報じている。それは確かに事実ではあるが、この問題に以前から関心を持ってきた人は、何か違和感を感じないだろうか。

一言でいえば、この問題の根幹は普遍的な「人権」の問題であって、本来、一国内の「家族観」で左右されるようなものであってはならないはずだ。ここには何か根底的な「(日本国内と、その外側の間での)意識のずれ」があるように思われる。

この「意識のずれ」こそが、日本がこれまでこの問題について、長年にわたって国連人権委員会や子どもの権利委員会から法改正への勧告を受けながら、なんら改善に手をつけようとしなかった(つまり国際社会から何と言われようと、「ダンマリ」を決め込んできた)理由なのだろう。

以下のページに、婚外子の地位に関わる国際条約と、これまで日本が国際社会から受けてきた「勧告」がまとめられている。

http://www.geocities.co.jp/NatureLand/2255/page019.html

これを見ると分かるように、国連人権委員会が婚外子を差別する民法改正を勧告したのは20年も前のことである。昔からよく「日本は外圧に弱い」と言われるが、実際には全く逆で、事実は「どんな外圧(国際機関からの改善勧告)があろうと、国内事情(国内世論)優先」ではないか。「外圧など、知ったことじゃない」というのがホンネなのだ。

さらに、このように「国際社会から見られている」こと自体を知らないという人も多い。これは「人権(情報)の鎖国状態」だ。この点については「女性差別撤廃条約」も同様の状況に置かれている。そういう状況をあまり伝えないメディアの責任は大きい。メディアは広く国際的な情報を伝えることによって、国際社会の一員として恥ずかしくない国民を育てる役割も担っているはずだ。

メディアの責任は一旦おくとして、つまるところ、日本社会では「普遍的な人権の価値(個人の基本的人権)」ということが十分に理解されていないのではないか?とも考えられる。そう考えなければ、「個人」よりも「家」の方が重視されるような社会習慣が何時までも残っている現象は理解できないからだ。

何も難しい話ではない。例えば結婚式。この世界では相変わらず、招待状や式場の掲示で「○○家・××家結婚式」という表現が一般的だ。憲法には「婚姻は、両性の合意のみに基づき。。。」と書いてあるのだが。人々の意識は「結婚とは、○○家の女性が××家に嫁ぐこと」のままなのか? そこが変わらないと、なかなか社会全体も変わっていかないのではないか。

政治に関するある市民講座で、大文字のPoliticsと小文字のpoliticsという話を聞いた。小文字のpoliticsとは、個人レベルの日常をどう(良い方向に)変えていくか、ということ自体が、一つの「政治(politics)」だということだ。大文字のPoliticsだけが「政治」ではない。私たちの意識や習慣(内なる差別意識、時代遅れの習慣、等々)を、日々変えていくことが、ひいては大文字のPoliticsをも動かしていくことになるのだと思う。

(2013-9-5 by 山猫軒)

【ブログ管理者からの注】先日、書きましたように、このブログはタイトルも「木村えい子と仲間たちのブログ」と変更して、今後は社民党神奈川の党員の誰でもが投稿できるブログとして活用していきます。本日は党員の「山猫軒(ペンネーム)」さんからの投稿です。